2006年04月06日 (木) | 編集 |
福岡県下の県立学校・義務制諸学校では人権・同和教育が年間指導計画に基づいて実施されていますが、平成に入ってからも学校現場に特定の運動団体が差別糾弾を目的として介入している事実があります。
糾弾は、辞書によると「罪状や責任を問いただして、とがめること」(大辞林より)を指していますが、『何を、どう糾弾するか』(部落解放同盟中央本部編 1991年)で述べられている部落解放同盟の定義は以下のとおりです。
部落解放運動における糾弾とは、抗議であるとともに差別をした人に差別の間違いをさとらせ、部落の解放をめざす人間に変わっていくことを求める闘いであり、それは教育活動でもあるのです。
さらに、その闘いを通じて被差別者である部落大衆自身が解放への自覚を高め、差別者と被差別者が、ともに人間解放への本当の意味での連帯を生み出していこうという積極的な意味ももっています。ですから部落解放運動における差別糾弾闘争は、差別する側の論理と差別される側の論理とのイデオロギー闘争であるともいえます。
福岡県当局はこの解放同盟の主張を受け入れて、公式に被差別者の救済措置がない現状では確認・糾弾会は必要だと表明しており、法務省見解や総務庁の啓発指針にある通知は差別を肯定するとして指導文書として取り扱っていません。
そのため平成6年(1994)に生徒の発言をめぐる差別糾弾の直後に起きた小郡中学校の廣木一貫校長自殺事件が起こることを防ぐことができませんでした。
その後も各地で学校における「差別発言」をとらえた糾弾は行われ、県民に「怖い」という印象を与えたことは、その目的と裏腹に同和問題の解決を妨げたといわれても仕方がありません。
国においては「確認・糾弾」に対する見解を、平成元年8月4日に法務省人権擁護局総務課長名で、全国の法務局人権擁護部長、地方法務局長あてに通知をしています。
長くなりますが法務省見解を引用します。
4 地対協意見具申と法務省の取組
昭和61年12月の地対協意見具申は、確認・糾弾会について「いわゆる確認・糾弾会は、差別の不合理についての社会的認識を高める効果があったことは否定できないが、被害者集団によって行われるものであり、行き過ぎて、被糾弾者の人権への配慮に欠けたものになる可能性を本来持っている。 また、何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から、恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、さ細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植え付け、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっている。」として、同和問題についての自由な意見交換のできる環境づくりが同和問題解決のために不可欠である旨指摘している。 そして、「差別事件は、司法機関や法務局等の人権擁護のための公的機関による中立公正な処理にゆだねることが法定手続きの保障等の基本的人権の尊重を重視する憲法の精神に沿ったものである。」旨提言した。
法務省は、この提言を真摯に受け止め、その趣旨に沿った取組に鋭意努力してきたところである。
5 当局の見解
現実の確認・糾弾会は、3で述べた解同の見解の通りに行われているとは限らない(注2)。 仮に解同の見解に従って行われている場合でも、なお、次のような種々の問題があると考える。
(1) 基本的な問題点
ア 確認・糾弾会は、いわゆる被害者集団型数の威力を背景に差別したとされる者に対して抗議等を行うものであるから、被糾弾者がこれに異議を述べ、事実の存否、内容を争うこともままならず、また、その性質上行き過ぎて被糾弾者の人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている。
イ 確認・糾弾会においては、被糾弾者の人権擁護に対する手続的保障がない。 すなわち、被糾弾者の弁護人的役割を果たす者がいない上、被害者集団が検察官と裁判官の両方の役割を果たしており、差別の判定機関としての公正・中立性が望めず、何が差別かということの判断を始め、主観的な立場から、恣意的な判断がなされる可能性が高い。
ウ 被糾弾者には、確認・糾弾会の完結時についての目途が与えられない。 反省文や決意表明書の提出、研修の実施、同和問題企業連絡会等への加入、賛助金等の支払い等々確認・糾弾行為を終結させるための謝罪行為が恣意的に求められ、これに応じることを余儀なくされる。
(2) その他の問題点
ア 何が差別かということを主観的な立場から、恣意的に判断されて、確認・糾弾会の開催が決定され、それへの出席が求められる。
イ 確認・糾弾会に出席する法的義務はなく、その場に出るか否かはあくまでも本人の自由意思によるべきであり、解同もその出席は被糾弾者の自由意思に基づくものであり強要はしていないとしている。 しかし、現実に解同は、出席を拒否する被糾弾者に対して、差別者は当然確認・糾弾会に出席するべきであるとし、あるいはこれを開き直りであるとして、直接、間接に強い圧力をかけ、被糾弾者を結局、出席ざるを得ない状況に追い込むことが多く、その出席が被糾弾者の自由意思に基づくものであるとされても、真の自由意思によるものかに疑問がある場合が多い。
ウ 被糾弾者に対する確認・糾弾会の開催は、「同和問題はこわい問題である」との意識を一般的に植え付け、人々が地域・職場などのあらゆる場面で同和問題についての自由な意見交換をすることを差し控えさせてしまったと言える。
エ 行政機関に対して確認・糾弾会への出席が強要されているが、これは行政の公正・中立性を損ない適正な行政の推進の障害となっている。
以上のとおりの様々な問題点にかんがみると、確認・糾弾会は、同和問題の啓発には適さないといわざるをえない。 このため、法務省の人権擁護機関は、差別をしたとされる者(被糾弾者)から確認・糾弾会への出席について相談を受けた場合は言うまでもなく、相談を受けない場合にも必要に応じて、「確認・糾弾会には出席すべきでない」、「出席する必要はない」等と指導してきている。
国の公的見解として堂々と糾弾の誤りを指摘し、行政の中立性の観点から糾弾会には参加すべきではないとしているにも関わらず、この通知に対して福岡県はじめ広島県、大阪府などは差別文書だとして批判しています。
広島県で糾弾による変死事件が相次いだのは団体の圧力に押し切られ、教育の場にまで運動団体の圧力を持ち込んだため起こったことだといわれます。
えせ同和行為が依然としてなくならないのはこの糾弾に対する恐怖感を利用する者がいることを考えると、運動団体は歴史的な経緯や思いはあるにしても自粛するのが望ましいと思います。ましてや教育現場に地域との連携を盾に取った介入を行うことは厳に慎むべきです。
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糾弾は、辞書によると「罪状や責任を問いただして、とがめること」(大辞林より)を指していますが、『何を、どう糾弾するか』(部落解放同盟中央本部編 1991年)で述べられている部落解放同盟の定義は以下のとおりです。
部落解放運動における糾弾とは、抗議であるとともに差別をした人に差別の間違いをさとらせ、部落の解放をめざす人間に変わっていくことを求める闘いであり、それは教育活動でもあるのです。
さらに、その闘いを通じて被差別者である部落大衆自身が解放への自覚を高め、差別者と被差別者が、ともに人間解放への本当の意味での連帯を生み出していこうという積極的な意味ももっています。ですから部落解放運動における差別糾弾闘争は、差別する側の論理と差別される側の論理とのイデオロギー闘争であるともいえます。
福岡県当局はこの解放同盟の主張を受け入れて、公式に被差別者の救済措置がない現状では確認・糾弾会は必要だと表明しており、法務省見解や総務庁の啓発指針にある通知は差別を肯定するとして指導文書として取り扱っていません。
そのため平成6年(1994)に生徒の発言をめぐる差別糾弾の直後に起きた小郡中学校の廣木一貫校長自殺事件が起こることを防ぐことができませんでした。
その後も各地で学校における「差別発言」をとらえた糾弾は行われ、県民に「怖い」という印象を与えたことは、その目的と裏腹に同和問題の解決を妨げたといわれても仕方がありません。
国においては「確認・糾弾」に対する見解を、平成元年8月4日に法務省人権擁護局総務課長名で、全国の法務局人権擁護部長、地方法務局長あてに通知をしています。
長くなりますが法務省見解を引用します。
4 地対協意見具申と法務省の取組
昭和61年12月の地対協意見具申は、確認・糾弾会について「いわゆる確認・糾弾会は、差別の不合理についての社会的認識を高める効果があったことは否定できないが、被害者集団によって行われるものであり、行き過ぎて、被糾弾者の人権への配慮に欠けたものになる可能性を本来持っている。 また、何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から、恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、さ細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植え付け、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっている。」として、同和問題についての自由な意見交換のできる環境づくりが同和問題解決のために不可欠である旨指摘している。 そして、「差別事件は、司法機関や法務局等の人権擁護のための公的機関による中立公正な処理にゆだねることが法定手続きの保障等の基本的人権の尊重を重視する憲法の精神に沿ったものである。」旨提言した。
法務省は、この提言を真摯に受け止め、その趣旨に沿った取組に鋭意努力してきたところである。
5 当局の見解
現実の確認・糾弾会は、3で述べた解同の見解の通りに行われているとは限らない(注2)。 仮に解同の見解に従って行われている場合でも、なお、次のような種々の問題があると考える。
(1) 基本的な問題点
ア 確認・糾弾会は、いわゆる被害者集団型数の威力を背景に差別したとされる者に対して抗議等を行うものであるから、被糾弾者がこれに異議を述べ、事実の存否、内容を争うこともままならず、また、その性質上行き過ぎて被糾弾者の人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている。
イ 確認・糾弾会においては、被糾弾者の人権擁護に対する手続的保障がない。 すなわち、被糾弾者の弁護人的役割を果たす者がいない上、被害者集団が検察官と裁判官の両方の役割を果たしており、差別の判定機関としての公正・中立性が望めず、何が差別かということの判断を始め、主観的な立場から、恣意的な判断がなされる可能性が高い。
ウ 被糾弾者には、確認・糾弾会の完結時についての目途が与えられない。 反省文や決意表明書の提出、研修の実施、同和問題企業連絡会等への加入、賛助金等の支払い等々確認・糾弾行為を終結させるための謝罪行為が恣意的に求められ、これに応じることを余儀なくされる。
(2) その他の問題点
ア 何が差別かということを主観的な立場から、恣意的に判断されて、確認・糾弾会の開催が決定され、それへの出席が求められる。
イ 確認・糾弾会に出席する法的義務はなく、その場に出るか否かはあくまでも本人の自由意思によるべきであり、解同もその出席は被糾弾者の自由意思に基づくものであり強要はしていないとしている。 しかし、現実に解同は、出席を拒否する被糾弾者に対して、差別者は当然確認・糾弾会に出席するべきであるとし、あるいはこれを開き直りであるとして、直接、間接に強い圧力をかけ、被糾弾者を結局、出席ざるを得ない状況に追い込むことが多く、その出席が被糾弾者の自由意思に基づくものであるとされても、真の自由意思によるものかに疑問がある場合が多い。
ウ 被糾弾者に対する確認・糾弾会の開催は、「同和問題はこわい問題である」との意識を一般的に植え付け、人々が地域・職場などのあらゆる場面で同和問題についての自由な意見交換をすることを差し控えさせてしまったと言える。
エ 行政機関に対して確認・糾弾会への出席が強要されているが、これは行政の公正・中立性を損ない適正な行政の推進の障害となっている。
以上のとおりの様々な問題点にかんがみると、確認・糾弾会は、同和問題の啓発には適さないといわざるをえない。 このため、法務省の人権擁護機関は、差別をしたとされる者(被糾弾者)から確認・糾弾会への出席について相談を受けた場合は言うまでもなく、相談を受けない場合にも必要に応じて、「確認・糾弾会には出席すべきでない」、「出席する必要はない」等と指導してきている。
国の公的見解として堂々と糾弾の誤りを指摘し、行政の中立性の観点から糾弾会には参加すべきではないとしているにも関わらず、この通知に対して福岡県はじめ広島県、大阪府などは差別文書だとして批判しています。
広島県で糾弾による変死事件が相次いだのは団体の圧力に押し切られ、教育の場にまで運動団体の圧力を持ち込んだため起こったことだといわれます。
えせ同和行為が依然としてなくならないのはこの糾弾に対する恐怖感を利用する者がいることを考えると、運動団体は歴史的な経緯や思いはあるにしても自粛するのが望ましいと思います。ましてや教育現場に地域との連携を盾に取った介入を行うことは厳に慎むべきです。
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