<当ブログは、ヘイトスピーチ規制法案に反対します>フリーのライター・編集者 として取材活動、国民運動として教育正常化、TPPなど経済政策、労働政策などに取り組み、情報公開請求や国会陳情など議員・行政対策に重点を置いています。皆様より取材、運動推進のためにご支援をいただければ、幸いです。仕事の依頼など連絡先・支援先の詳細はプロフィールをご覧ください。
 スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


 プロパガンダというのはプロパガンダという装いを絶対に取らずに私たちの前に現れる
2010年07月24日 (土) | 編集 |
紹介が遅くなりましたが、産経MSNニュースで連載中の「安藤慶太が斬る」は非常に面白い。

検索をしてみると連載内容に批判的な意見の人たちもいらっしゃるようですが、安藤氏は元雑誌『正論』の編集部で、私の原稿の担当者でもありました。

文部科学省担当の時に私(当時学生)の送った一通のファックスを目にとめられ、異動に伴い原稿を書かせていただくことになった次第です。

いうまでもなく同和問題はどこの新聞社も雑誌も避けたがり、ある週刊誌のようにお決まりの解放同盟幹部のインタビューを載せたり、解同に阿る記事ばかり。

サイゾーという雑誌で組坂委員長のインタビューを載せているようですが、数年前の解放同盟の大会で組坂委員長は「サイゾーはけしからん。解放同盟を解体せよという」といっていたのではなかったか。



クリックお願いします♪
blog

↓にほんブログ村 政治ブログ、クリックお願いします♪
にほんブログ村 政治ブログへ

保守派「sns-freejapan」と連携しています。
SNS-FreeJapan

『正論』だけが、広島の教育問題以降、三重県、大阪府、滋賀県、福岡県など地方の動向を含め取り上げ続けています。軒並み西日本は解放同盟に行政も支配されているといってよい有様です。

さて、今回取り上げたいと思うのは、安藤氏が学生時代に、トランプの大貧民という名称におそらくは日教組であろう教師から「貧民」という名称とそのルールが差別であると責め立てられたという記憶を語っておられます。

当時の時代状況からみてここで教師が問題にしたのは、被差別部落の人たちを苦しめる構造を肯定するとはけしからんということだろうと思われます。

そういえば福岡では大貧民ではなく、大富豪という名称が一般的ですが、おそらくかつての差別糾弾が激しい時代の関係なのではないでしょう。福岡はいうまでもなく部落解放同盟の糾弾闘争が激しく繰り広げられた地域です。

大貧民のことは、記憶にとどめておきたいエピソードです。

後半のザ・コーブのこともなるほどと思わされます。

「プロパガンダというのはプロパガンダという装いを絶対に取らずに私たちの前に現れる」

テレビドラマでもマンガでも、映画でも、あるいは音楽でも。普通にその作品の一部分あるいは全体像として存在しています。

このことを十分自覚しておいたほうがよいと思いました。


http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100704/stt1007041802001-n1.htm

【安藤慶太が斬る】政治そのものが愚弄される社会にならないために
2010.7.4 18:01

 私は昭和40年、福岡に生まれ、浪人生活までをここで過ごした。福岡は当時、日教組の強い地域だった。最近では日教組に批判的なグループも強くなったらしいが、県立高校で毛沢東語録を教える教師が裁判沙汰(さた)になったり、国歌をJAZZかロックに編曲した音楽教師が現れたり、あるいは教職員組合が気に入らない校長の赴任初日に、校門にバリケードを築いて、入校阻止を企てたりと、今から思えばまあ話題には事欠かない地域だったといっていいだろう。

■珍事の連続

 私が通った高校では勤務時間中なのに授業のない教師が数人集まって、平気でコートでテニスに興じていた。それをとがめられる場面も見たことがなかった。世界史の授業では朝鮮戦争は韓国側が先に不当な攻撃をしたと教えられた。米軍が参戦したときには北朝鮮軍は戦闘を止めて土着して仲良く暮らしていた…なんて話を真顔で聞かされたものである。

 これも私の高校での話だ。トランプゲームで「大貧民」(地域によっては「大富豪」ともいうらしい)というゲームが放課後の生徒会室ではやったことがあった。何人かの生徒同士が遊んでいる場面を、巡回中の生徒指導主事の教師が目撃、「何をしているんだ!」となった。ところがこの教師が問題視したのはまず「大貧民」というネーミングだったのである。この名前が差別的だというわけである。

 さらにこの教師はゲーム勝者の「大富豪」が次のラウンドに入る際、自分の一番弱いカードをゲーム敗者である「大貧民」に押しつけ、代わりに「大貧民」が持つ一番強いカードを受け取るルールが「差別を温存する構造」だと言い出した。「大貧民」はいつまでも「大貧民」から抜けられないゲームの構造になっている、そんなゲームに興じるのは差別を肯定することにほかならない、というわけである。

差別に苦しんでいる人間がゲームを見たときに味わう苦しみは計り知れない、それがおまえたちわかっているのか!という論理で責め立てられたのである。生徒は「はいはいわかりました」とその場を撤収して収めたが「大貧民」というゲームは相変わらず残った。翌日から「大貧民」という名称が教師の氏名に変わっただけだったからである。

■平和教育の賛美歌

 今から思えば何かが狂っている光景の連続だった。

小学校では一学期の終業式が近づくと「夾竹桃(きょうちくとう)のうた」をよく歌わされた。

《夏に咲く花 夾竹桃

 戦争終えた その日から母と子供の おもいをこめて

 広島の 野にもえている

 空に太陽が 輝くかぎり

 告げよう世界に 原爆反対を》

 まるでうたごえサークルのようなテイストの歌だ。曲の最後など政治スローガンそのものなのだ。でも当時の私は元気に歌い終わって、結構心地よい思いを味わっていた。これが「平和教育」の「賛美歌」みたいなものだとは当時わかるはずもなかった。広島に原爆が投下された8月6日、夏休みの出校日になっていて、体育館に生徒を集めたところで、先生から「さん、はい」という号令のもとで歌わされるのだ。午後は午後で毎年のように「はだしのゲン」の上映会も用意されていた。学校教育の至るところにそういう仕掛けがあったのだが、後で夾竹桃が毒性植物でもあることを知り、なるほどと思ったものである。

 個々に見ると道を誤れば、厳しく諭してくれたし、真剣かつまじめな教師も多かった。だが、学校にここまで特定のイデオロギーが持ち込まれていいはずがない。

 現実には、こうした教育が正常な姿だと今も漠然と受け止めている人が多いのも確かである。時間とともにそれは当たり前のものと見なされ、定着するからだ。教師自身がどこまでその怖さを自覚してやっていたかは定かではないが、奥にはイデオロギーに基づく明確な意図がある。そして、それは生徒からは見えない。これは立派な洗脳だと考えていい。

■イルカが日本人より大事

 和歌山県太地(たいじ)町のイルカ漁を隠し撮りし、批判的に描いた米映画「ザ・コーヴ」の上映が全国6映画館で始まった。シーシェパードのプロパガンダのような作品と指摘されており、作品は描写の公正さや隠し撮りという手法など、さまざまな問題をはらんでいる。

 米国人に時々思うことだが、どうして彼らはこう単純な正義の使者になれるのだろう。どうしてここまで押しつけがましくなれるのだろうか?まさかというかやっぱりというか、米国人はいまだに日本人よりイルカの方が大事だと真顔で考えているんじゃないだろうか。

戦争中、硫黄島の戦いに臨んだ海兵隊員のヘルメットには「ネズミ駆除業者」と書いてあったそうだし、日本の占領政策にしても「日本人は何をしでかすかわからない」という思考のもとで行われたではないか。

経済復興を果たせば、今度は「エコノミックアニマル」呼ばわりだ。

今度はイルカかよという思いである。いつも私たちは動物以下に位置づけられる。この作品は2009年度のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞など数々の賞を受けたそうだが「ふーん」という気分である。これって恐ろしいほどの差別意識が一貫して彼らに根ざしていることを裏付けた作品じゃないか。

■「表現の自由」で商売するなよ

 というわけで、私はこれを「表現の自由」を盾に上映すべきだという日本の左翼の方々の気がしれない。「表現の自由」を、いつも彼らは免罪符に使うのだが、この映画にはもっと大切な問題が横たわっていると思えるからだ。

 せめて「表現の自由」を口にするなら、表現をだらしなくもてあそぶのは慎むべきだというたしなみなり矜恃(きょうじ)はもっていてほしい。そんな彼らに限って自分たちの意に反する言論には目をむいて排除する体質をもっていたりする。いかがわしく、ちっとも、公正ではないのである。私だって言論統制社会には反対の立場であり、表現の自由は大事と思っているが、「表現の自由」を使って騒ぎをでかくしながら商売につなげることとは似て非なるものということは指摘しておきたい点である。

■プロパガンダは至る所にある

 ぜひ、映画をごらんになる人にとってプロパガンダの怖さというものを考える機会になれば、と願う。日本人を残酷な人たちと明白に描いている作品のようなので、心ある人なら胸を痛めるのではないかとは思うのだが、もしかするとこれはイルカ漁に携わった人々らが批判の対象であって、自分には関係ない話で、映画は映画として楽しめばよいと思う人もいるかもしれない。

 映画というパッケージでさまざまなおもしろさを織り交ぜられて示された場合に、作り手の主張をうのみにしてしまうのか否か。うのみにしなくともどこまで、引き込まれてしまうものなのか。映画を見たときに周りがどこまで感化されるか。プロパガンダというのはプロパガンダという装いを絶対に取らずに私たちの前に現れる。

常に知らず知らずなのである。それは文学であったり、映画作品であったり、日々の新聞だったり、エンターテインメントだったり、あるいは学校での「夾竹桃のうた」だったりするのだ。

 せっかく映画を見るのであれば、プロパガンダというものがいかに日常的な場所に転がっているのか、そういうことを考える機会になればと思うのである。

【後略】
スポンサーサイト


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
なめ猫