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 祖母が亡くなりました
2011年05月01日 (日) | 編集 |
ブログの更新がとまったままになりましたが、4月22日午前6時40分ごろに祖母が亡くなりました。

初七日も終わり、ようやくブログでご報告できるところまで落ち着きました。

祖母は85歳で生涯を終えましたが、祖母の強い願いで病院ではなく、福祉施設のご協力を得ながら家族で在宅介護をしておりました。昨年夏、持病のリューマチが悪化して寝たきりでした。この間、隣近所の皆様、地域の福祉施設の方や往診にきていただいていました病院の先生、看護婦さんには本当に感謝しております。

選挙運動など活動で家を離れることも少なくなかった私ですが、最後の一週間は家におり、両親や妹とともに祖母と過ごすことができました。

元気だったころの祖母を知る私としては昨年夏、陳情に行っていた東京から戻ってきてからの祖母の容体の急変、寝たきり状態はいたたまれない思いも抱きつつ、ご近所の皆様、親族など御縁のありました多くの皆様のお見舞いをいただき、祖母も喜んでいたと思います。

でも、やっぱりばあちゃんの作るだんご汁やがめ煮(筑前煮)豚汁などをもう食べることもできません。洋風のしゃれたものは作れなかった祖母でしたが、だんご汁もがめ煮、豚汁、肉じゃがは正直言って母よりおいしかった。楽しみにしていました。もう一度食べたかった・・・

ご近所のおつきあいのあった方々にとっても近所を散歩しては、世間話をしたり、時には食事会をしたりしてということはもうできません。

小学校から大学まで通じ、学校から帰ってくると、◎◎さんおんのー?(いますかー?)と来ては、我が家にあがっていろいろな話をしている姿をよくみました。

弔辞でも述べましたが、祖母は大正・昭和・平成の3つの時代を生きてきました。貧しかった時代も耐え抜いてきました。

祖母は戦争、敗戦の激動を経て、祖父と結婚しました。祖父は支那事変で志願して従軍した軍人でした。国から叙勲を受けた話や戦車第5連隊にて初年兵教育などを担当し、昭和17年に連隊長だった閑院宮春仁親王様の警護に従事した話はよく聴いていました。終戦は千葉県の習志野でした。

祖母がなくなり、祖父の遺品も含め家族でみておりましたが、筑紫野市の大丸別荘で宮様をお迎えして戦友会を開催した写真や戦車に乗った堂々とした祖父の写真をみると、祖父の思いを継承しなければと改めて思いました。

祖父は平成元年に亡くなり、祖母にとってはいろいろな思いがあったと思います。いろいろな経緯があり平成に入ってから創価学会の信仰をもっておりましたが、祖父への尊敬を亡くなるまで持ち続け、皇室への思いや靖国参拝は肯定していて、学会員というより、ごく普通の日本人だったと思います。それでずっと我が家は祝祭日は国旗をあげてきておりました。

生まれた時からずっと祖母が家にいて、昨年8月までは我が家の庭に野菜を植え、花を育てておりました。その野菜をご近所におすそ分けし喜ばれていました。

前にも書いたように私は濃密な田舎の人づきあいが苦手です。しかし、まさかっちゃんまさかっちゃん呼ばれてよくしていただいたのは、何十年にわたる祖父母の築いた地域での信用があればこそです。

通夜、葬儀、初七日などでいままで直接は関わってこなかった親族とかかわることも多く、とまどいながらも、改めて祖母の存在の大きさを感じています。

葬儀にはいまおつきあいしている彼女も来て、親族扱いでいろいろ手伝ってくれ、その日泊まっていってくれました。

昨年まだ祖母が寝たきりになる前に彼女を連れてきて紹介したら、大変喜んでいました。これだけはできてよかったと思います。学生時代通じて我が家に彼女を連れてきたのは初めてでした。

ご近所の皆さんにも「まさかっちゃん、彼女大事にしなさいよ」といっていただきます。二人でこれから大変だけど頑張ろうと話をしています。

私が自宅を留守にしがちで、母から「ばあちゃんが将勝はどげんしよるね」と祖母が心配していたと聴いて、もっとそばによりそっていればと悔やむ思いでいっぱいです。

幼い時に、妹が生まれた時、熊本にきた祖母に「ばあちゃん」と抱きついたことがあります。葬儀の時、棺にお花を入れていくとき、遺影をもって霊柩車で出るとき、思い出が浮かんできて、たまらず涙があふれて仕方がありませんでした。

もう祖母はこの世にはいません。今頃、大好きだった、尊敬していた祖父と一緒にいると思います。

祖母が亡くなってから、父とよく話すのは、九州新幹線で鹿児島に連れて行きたかったということです。桜島や西郷さんの銅像などを見せたかった。

先日は昭和の日でしたが、平成も23年が経過し、激動の昭和を知らない世代も増えています。私の若い仲間たちも平成生まれが多くなっています。伝えていかないといけないことは多くあります。

私も昭和56年(1981年)生まれで、それまでのある意味戦後を引きずる雰囲気から、現代に通じる過渡期に生まれ育っています。

若い世代の皆さん、じいちゃんばあちゃんが生きているうちに、大事にしてあげてほしいと思います。そのやり方は人それぞれあると思います。祖父母と孫の関係は両親とは違うものがあります。

私も家族もご近所も親戚その他御縁をいただいたみんなさびしく思っています。とぜんなか、と思っています。

八女の方言でさびしいことを「とぜんなか」といいます。祖母もよく口にしていました。

最後に弔辞で述べたあいさつで締めくくります。

ばあちゃん、さよならはいいません。これからも僕たち家族を見守っていてください。有難うございました。

これを書いてる途中もお参りさせてください、と祖母と親しかった方がきてくださいました。お話しをお伺いしましたが、亡くなる前日、祖母が手を握って「明日も必ず来て」といっていたそうです。お前が先にいってしまいとぜんなかと涙を流される姿を見て、本当に祖母は周りの皆さんに恵まれたと思いました。またいつでもきてくださいと申し上げました。


※今回は個人的な話でしたが、東日本大震災があり、家族の絆が改めていわれています。また祖母の介護もあり、医療・福祉行政についてかなり認識が変わりました。介護の現実や福祉行政のことなど、そういうことも今後ここで取り上げていくこともあると思います。身内のことから日本は高齢化社会に入ったことを実感しました。
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